◆顔と個人の特定と認識◆しつこいようだが、先日の誕生日にプレゼントは無かった。しつこいようだが、まだ待っているのに、まだ届きません。 ところで、誕生日といえば、プレゼントの他に運転免許証の更新があります。 その運転免許証には当然、写真が貼ってあるのですが、運転免許証の写真はどうしてああ悪く写るのでしょうか。 写真うつりが悪いのは慣れていますが、免許証を更新するたびに、あまりのひどさに目を疑い、鏡を疑い、日本の運転免許制度と交通行政を疑います。 なにより腹立たしいのは、その写真を見て私だと判る点です。 識別できる範囲で最もひどい顔に写すために、特殊なカメラを使っているのではないかと思います。 なぜ、わざわざひどい顔に写すのか、よく解りませんが、たぶん反省を促すためでしょう。 もちろん、証明写真は本人を識別できれば、どんな写り方でもいい、という人もいるでしょう。 私もこれと基本的に同意見です。 だがそれは他人の場合です。 自分の写真は、識別できなくてもいいから良く写って欲しいと思います。 誰でも写真を撮られるとき、少しでもよく写ろうとするのではないでしょうか。 写真を撮られる時に頑張っても、どうなるものでもありませんが、ありのままの姿ではマズイような気がするのです。 私もカメラを向けられると、反射的に顔の筋肉を調整して、ほんの僅かでも良く写ろうと努力します。 希望としては、クールで、シャープで、神々しいまでの気品があり、成熟した渋みの中にも子供のような柔軟で純粋な心を宿し、都会的な紳士でありながら危険な野性味を秘め、孤高の天才でありながら人懐っこく優しげで、博愛の心と包容力に溢れた眼差しを持ち、力強い意志を連想させる眉間に、繊細な神経を思わせる端正な鼻筋、強さと逞しさを感じさせる口元で、ハリウッドの主演さえ可能な程の男前なのに、自分ではそれに気付いていないような男に写りたいのです。 問題は、どうすればそういう顔に写るのかが分からないという事です。 我々は普通、自分がどんな人間であるかを、九割三分六厘は顔で判断しているように思えます。 仮に夜眠っている間に自分と他人の顔が入れ替わったとしましょう。 この場合、顔以外は以前と全く同一でも、朝起きて鏡を見たら「別人になってしまった」と考えるでしょう。 また、周囲も私とは見てくれないでしょう。 (私と見てくれない方がむしろ助かるが) これに対して、顔が同じままで、一夜で体型が変わった場合、我々は「異常に太った」とか「異常に背が縮んだ」などと考えるでしょうが、「別人になった」とは思わないでしょう。 心はどうでしょうか。 仮に私が、脳を交換するなどで、トム・クルーズと心が入れ替わったとしましょう。 その場合は、朝起きて鏡を見たら「別人になった」と考えるでしょう。 そして「どうしてこんなに上品で知的な顔になったのか」と問うでしょう。 しかしその場合、顔もトム・クルーズの顔になったとしたら、「別人になった」とは考えず、こう思うでしょう。 「ここはどこだ。どうして私はこんなところに居るのだろう。」 このように顔は自分が何者であるかを判断する重要な手段です。 顔の重視は本能的なものであり、乳児の頃から顔は関心の的です。 成長したら母親とは顔も合わせたくもないのに、母親の顔を目で追い、目が合うとにっこり笑ったりします。 顔がおかしくて笑っているのかも知れませんが、乳児が母親の顔を識別しないと椅子などにしゃぶりつく恐れがあります。 顔がこれほど重要な識別手段なら、なぜ我々は平気で顔をさらしているのでしょうか。 他人に簡単に識別されるという事は、重要な個人情報を知られてしまうという事になります。 芸能人のプライバシーが制限されてしまうのは、顔を曝しているからです。 普通の人間も、注目を集めないだけで、プライバシーが制限されている点では同じです。 それなのに、誰も顔を曝すことに疑問を抱かず、まっとうな人間は顔を隠すことはないと考えています。 顔というのは個人を特定する手段としては、簡単な識別手段ですが、不正確なものです。 私などは無免許で検問されても弟のフリをして切り抜けていました。 正確を期すなら、指紋やDNAを使う必要があります。 いっそ識別は指紋やDNAで厳密に行い、顔は仮面などで隠してもいい事にしてはどうでしょうか。 現在でも、メガネ、マスク、帽子、カツラ、包帯などは許されています。 世界には、顔に模様を描いて素顔を隠している種族もいますし、日本にも、それ以上の濃い化粧で別人になりきっている女性もいます。 自然界でも、カメレオンやタコなどは外見を変えられるし、パンダ、トラ、ダルメシアンなどは、生まれつき素顔を隠しているようなものです。 いつも仮面を付けるようにすれば、自分や他人を顔によって表面的に判断することが無くなり、顔で異性を選んで失敗したり、相手の顔に飽きるといったことも無くなるでしょう。 私とトム・クルーズを見まちがえる人がいて、デメリットも考えられますが、何よりも、免許証の写真を嘆かなくなるメリットが大きいでしょう。 ≪注≫ 今回は、ひどく哲学的な内容になったものである。 自己認識と個々人の識別(差別化)について考察する事は、とりもなおさず、人類の平等と公平について考えを至らしめる事になるに違いない。 これを読む人が、そこまでの考察に至らなかったのは、読む人が至らなかったのであるから、至らなかった自分を責めずに、今後の私の文章の中に答えを見出すしかない。 残念だが、今回は紙面の都合もあり(私の都合もあり)続きは、またの機会に譲る。 |